昨今のニュースを見ていると他人に対して
想像力を働かせることができない
「モラルの欠如した大人」がいると感じます。
なぜ「自分さえよければよい」という
思考になってしまうのか。
ぼくは「考える習慣」がないことが
背景にあると考えます。
たとえば、エンターテインメントと迷惑行為の
違いが分からない「モラルに欠ける人」が
増えていたりしませんか。
YouTubeの閲覧数を増やしたいがために
躍起になってバイトテロのような迷惑行為を
発信したり、東京都知事選挙の掲示板では
「表現の自由」をうたって
裸の女性のポスターを貼ってみたり……。
注目を浴びたい!という気持ちは
多くの人にあるものだと思いますが、
人に迷惑をかけてまでその欲求を
満たしたい人たちのことを、
ぼくはどうしても理解できません。
もう「性善説」を信じて生きていると、
自分が傷つく世の中なのかもしれません。
「これは誰かに迷惑をかけてしまう」
「損害が出るかもしれない」そして、
いずれは「自分にとってマイナスになる」
というちょっと先のことが想像できないのは
とても怖いことだと思います。
「普通はしない」「常識の範疇(はんちゅう)」
という認識のボーダーラインがかなり
あいまいになってしまっているのは、
そこでは“別人”になれるというネット上ならではの
匿名性という特徴も影響しているのだと思います。
「多様性」という言葉を多様に受け取りすぎて
自分の都合のいいように解釈している人もいます。
ぼくは周りに合わせて、何が正しくなるのか、
わからなくなるくらいなら孤独でいいです。
大衆と同じ生き方をしていたら正しいのか?
周りに合わせた正しさを生きるんじゃくて
自分で正しさを選ぼうよ。
最近は、何が正しいか、自分で、
判断できる人が少なくなってきました。
自分の意見を主張できる人も少ない!
なんか濁した言い方をする人が多い!
「自戒を込めて・・・」とか言って、
置きにいったり、保険をかけた言い方ばかり。
僕がSNSで読みたいのも
「客観的な事実」じゃなくて
「その人の主観的な意見」なんだよね。
マスコミは視聴率が取れるように
不倫問題などのスキャンダルを
報道するのが【常識】かもしれないけど
人として【良識】なんでしょうか。
だって、その報道を何日も何日も続けて
誰が喜ぶの?どんな社会貢献になるの?
それを平気で続けられる人は
ちょっと、その心を疑います。
学校の目的は可能性を広げることであって
進学させるとか、宿題をさせるとか
学校からすると常識かもしれないけど
良識ではないですよね。
通院させるのは医療関係者からしたら
常識かもしれないけど、良識ではないよね。
性善説を信じる生き方をできる人や
良識が何か考えれる人があまりにも少ない。
だから、自分と同じ愛情や熱意を他人に
求めることをやめてからすごくラクになった。
でも・・・
ぼくは「不幸にならない選択」ではなく
「幸せになる選択」をしたいから
求めはしないけど、そういう人を探す。